第6話 中野 綾香「スクープがない!」
その朝は目覚まし時計がならなかった。それでもいつも通りの時間に起きた綾香は鎮座している目覚まし時計を一瞥して、夏休みか、とつぶやいた。
『本日は日本全国で洗濯日和となるでしょう』
テレビから流れる天気予報を聞きながら、母さんが新聞を読んでいた。紙面にシワが多いのは、父さんが読み終えた後の新聞だからだろうか。
経済新聞に目を通し終えた母さんは、次に学級だよりを流し読む。それから、綾香が発行している『週刊スクープ』を手にとった。
「へー。あそこのたい焼き屋さん、季節限定でイチゴ餡やってるんだ。おいしそう。……あら、中学サッカーの試合結果から、迷い犬の情報まで。いつもよく調べるわねぇ」
母さんは感心して頷きながら、コーヒーを口に運ぶ。綾香は照れ臭そうに笑った。
「ワタシの新聞で取り上げてほしいネタがあったら、いつでも言ってにゃ! ばっちり調べてくるからにゃ」
「そうね。気になることを見つけたらお願いするわ」
「情報提供者は常時募集中だからにゃ!」
母さんは軽く微笑むと、食べ終えた朝食の皿を洗い、鏡の前で髪をまとめた。綾香は食パンをかじりながら母さんの後ろ姿を見つめる。仕事に行く準備をしている母さんは戦闘モードに入るスポーツ選手みたいで、かっこいい。
「夏休み中も部活あるのよね?」
「もちろん! スクープは待ってくれないからにゃ」
「一人で遠くまでいっちゃだめよ。それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃい!」
玄関の扉が閉まる。唐突に、母さんが飲んでいたコーヒーの残り香が強く鼻先をついた。一人でいる時にこそ親の存在を感じるなんて少し変な感じだ。
綾香は窓辺に立つと、大きく伸びをした。昇ったばかりの太陽が綾香の白い二の腕をやんわりと照らす。
「さて……ワタシもそろそろ行きますかにゃ!」
◇
夏休み中とはいえ、学校は部活動に励む生徒で騒がしい。体育館にはバスケ部が、グラウンドではサッカー部と野球部、テニス部がそれぞれ練習に没頭している。
けれど一歩校舎に脚を踏み入れると、どの教室にも人がいなくてえらく静かだった。体育会系の部活と違って、文化部は夏休みに部活動を休むことが多い。
「みんな、おはよう!」
綾香は勢いよく教材室の扉を開けた。壁にはところ狭しと藁半紙が積まれ、狭い教室の大部分のスペースは巨大なプリンターが占めている。ここが新聞部の部室だ。
「編集長、お疲れ様です!」
分厚いメガネの女の子が敬礼した。綾香の後輩で、数少ない新聞部員の一人だ。編集長、と呼ばれた綾香は、少しだけ気を良くしてにこやかに挨拶を返す。
「お疲れさま。今、何してるのかにゃ?」
「今までに発行した『週刊スクープ』のバックナンバーを整理しているところです! もうすぐ、週刊スクープも発行100号目を迎えますよ!」
「もうそんなになるんだにゃ……」
綾香は、棚に積み上げられた過去のバックナンバーを見つめた。九十数枚分の厚みを見て、まだこれだけなんだ、と心の底でつぶやく。綾香が個人で発行した新聞は、この新聞部で発行した数の何倍もの量になるだろう。
綾香が自分で新聞を作るようになったのは小学生の頃からだ。
最初は、父さんと母さんに渡す交換日記のつもりだった。
共働きで忙しい父さんと母さんの元で育った綾香が、両親とゆっくり話せるのは、夕食の時間だけだ。学校での毎日はとても刺激的で、三十分や一時間ではとても伝えきれなかった。友達と珍しい虫を捕まえたことや、先生が面白い話をしてくれたこと。話したいことが次から次に溜まっていくから、うずうずした。もっともっとたくさんのことを母さんや父さんに教えたいと思った綾香は、その日の出来事を『中野家新聞』に書くことにした。そうすれば、時間のない父さんや母さんにもたくさん報告できるからだ。
「えーっ、今日、学校でこんなことがあったの?」
驚いて笑う母さんを見て、幼い綾香は胸を張った。もっともっと面白いこと探してくるね、母さんと父さんをもっとびっくりさせてやるんだ。そう決めた綾香は、それから毎日新聞作りに励み続けた。
今やっている新聞作りは、あの日の延長線上にあるんだと思う。
「100号目は記念の号だから、とっておきのスクープを載せたいにゃ……それまでに何か仕込まなきゃ……」
そして今日も、綾香は面白い新聞を作ることに全力を注ぐ。今では新聞部で編集長を務めるようになり、協力してくれる仲間もいる。こころ強いけれど、良い仲間がいても、書くべきネタがなければ動けないのが新聞部の痛いところだった。
「あーあー。まだ誰も知らない最高のネタ、ないかにゃ」
椅子に深く腰掛けて天井を見上げる。隣にいる部員が、うーん、と難しい顔で首をひねり、「コンビニの新商品でも紹介します……?」と自信なげに提案した。
「今週号でたい焼き取り上げちゃったにゃ。二週続けて食べ物ネタはにゃ〜。もっと刺激的なスクープを撮りたいにゃ」
今週号の読者アンケートでは「たい焼きの写真が美味しそう」「お腹が空いた」などの感想が届き、食べ物を取り上げた今回の記事は概ね好評だった。けれど綾香は、そんな安牌な記事ばかり出すことに納得できるタチではない。
うーん、と唸っていると、部室の扉が開いた。後輩部員が部室に飛び込んでくると同時に、勢いよく挙手する。
「編集長! ネタ集めてきましたよ!」
「おおっ! なにかにゃ!?」
椅子の背にもたれかかっていた綾香は、前のめりにくいついた。
「はい、隣の高校でUFOを目撃したとの情報がありました!」
「うーん、うちはオカルト雑誌じゃないからにゃ」
「他には、河原にミステリーサークルが現れたものの、一晩で消えたという証言が!」
「証拠写真がないと使えないにゃ!」
「謎の生命体を目撃したとの情報も……」
「なんで宇宙人情報ばっかりなのかにゃ!?」
すみません……と小さくなる後輩の肩にそっと手を添えると、「いつか本物の宇宙人スクープが撮れるようにがんばろう」と励ました。後輩はそれで元気を取り戻したようで、また新たなネタを探すために勢いよく部室を出て行った。
綾香は「面白いスクープが撮りたいにゃ〜」とうそぶきながら部室のパソコンを開く。
新聞部のホームページには『情報提供・要望・感想・なんでも受付中!』というフォームが設定されていて、読者や街の人たちから情報を募っている。
「読者から届いたネタを一つずつ読み上げていくから、どう思うかアンタの意見を教えて欲しいにゃ」
綾香にそう頼まれた後輩は、元気よく「任せてください!」と答えた。
「まず一つめだにゃ。HN.匿名希望さん。『カップルを別れさせる方法を教えて頂戴』」
「呪術師に頼むしかないんじゃないですかね」
「じゃあ二つめだにゃ。HN.よろしくなのださん。『尻尾のない猫の謎を解いてほしいのだ』」
「尻尾がないのは遺伝のせいらしいです」
「あ、謎解決したにゃ。じゃあ次だにゃ。『学校のプールにありえないものが映ります』HN.野崎さん」
「幽霊だとしたら嫌ですね」
「そうだにゃ。じゃあ次いくにゃ。『バッティングセンターの景品を調べてください』HN.ベアマックス大好きさん」
「それ新聞部の仕事ですか?」
「読者から要望があればやるけど、人気の記事にはならないにゃ。次。『行方のわからなくなった女の子を探してる。どこかに入院してるらしいんだ』HN.為せば成るさん」
「うちより探偵事務所に行った方がいいじゃないですか」
「そうだにゃ〜。まあ、うちくらい優秀な新聞部だと、こういう難事件をふっかけられることもあるにゃ」
綾香は椅子の背にもたれかかると、腕を組んで黙り込む。
「……編集長、読者からのタレコミは以上ですか!?」
「これで全部にゃ」
読者から寄せられた物の中に、めぼしい情報はなかった。けれど情報提供に頼っているようでは、とっておきのスクープは撮れない。結局、自分の足を使って探すのが一番だ。
「よし、じゃあワタシたちもパトロールにいくかにゃ!」
町中を歩いて聞き込みをし、記事になりそうな情報を探すことを新聞部では『パトロール』と呼んでいた。
机を覆い隠している藁半紙をどけて、地図を広げる。どこにあたりをつけて回ろうか、と悩んでいると、綾香の携帯が鳴る。さっき宇宙人ネタばかり仕入れてきた後輩からだ。
「もしもし? 何かあったかにゃ?」
「編集長! 近所でドラマかなんかの撮影してるらしいですよ! 芸能人がきてるんじゃ……」
「にゃにゃっ! それ、取材できたら大スクープ間違いなしだにゃ! 芸能人から読者に向けて何かコメントがもらえたら……!」
綾香は生唾を飲み込んだ。バッテリーの充電を確認すると、首からカメラを提げた。柔らかい布で毎日磨いているカメラにはところどころ細かい傷がついている。写真はスクープ記事のキモだ。共に紙面を支える大事な相棒として、綾香はカメラに「ワトソン」という名前をつけ、片時も離さずに行動している。
「編集長、いってらっしゃい! わたしはバックナンバー整理してますんで〜」
よろしく! と後輩に声をかけ、綾香は部室を飛び出した。
(もし芸能人が来るとしたら、どこかにゃ)
とりあえず街に飛び出したものの、情報が何も足りていない。ネタを提供してくれた後輩部員からの続報もまだだ。カメラのワトソンをいじりながら、頭をひねる。
ドラマ撮影のためにカメラを回すなら、きっと写真映えする土地だろう。それに、ミーハーな女の子がもう食いついているはずだ。
思い当たる観光スポットを巡りながら、芸能ネタに詳しい女の子に連絡する。
「それなら花時計のある公園かもしれない。あそこは人気の撮影スポットだよ」
「ありがとう、恩にきるにゃ!」
綾香は電話を切ると近くのバスに乗り、街中へ向かった。到着後、すぐに下車して辺りを見回す。
芸能人や撮影スタッフの姿どころか、それらしい人影すら見当たらない。
(ハズレだったかにゃ……)
次に打つ手を考えていると、背の高い男の人が歩いているのが目に止まった。けれどここからでは顔が影になっていて、よく見えない。
カメラを構えてファインダーを覗く。裸眼より、カメラを通す方が遠くの景色がよく見えた。カメラ越しに彼のシルエットを捉える。だんだん、こちらに近づいてきているようだ。
「ちょっと貴女」
鋭い口調で呼びかけられ、綾香はカメラを下ろした。黒いショートカットの女の子が目尻を吊り上げている。
「今、私のお兄ちゃんのこと盗撮したでしょ」
「にゃにゃっ!?」
「確かに私のお兄ちゃんは野球も強いし……でも、こういうのはお断りよ」
彼女は綾香のカメラに手を伸ばした。
「ちがうちがう、これは誤解で……!」
綾香は慌てて後ずさりカメラを死守する。
「和香? 急に走り出すからどこに行くのかと思った」
「おっ、お兄ちゃん……」
すらりと背の高い男の人が現れた途端、カメラを奪おうとしていた少女はおとなしくなる。綾香は大切にカメラを抱えたまま、ほっと息をついた。
「何してたの? 和香の友達?」
「ううん、この人、勝手にお兄ちゃんの写真撮ってたから……」
「ドラマか何かの撮影があって芸能人がくる、って聞いたから……」
「ええ? 芸能人?」
男の人は片手で口元を隠しながら、くすくす笑った。
「野球大会のポスターの撮影してただけだよ。確かに撮影スタッフは普段から芸能人相手に仕事してる一流の人たちだけど、今回のポスターの被写体は大学野球の選手。俺みたいなね」
「そ、そうだったのにゃ……」
頭にかけていたメガネがかくりとズレた。からぶりだ。
◇
(早とちりしちゃったにゃ……)
期待が高かっただけに、未練を残しながら綾香は街へ引き返す。歩きながら、首から提げているカメラを見下ろした。盗撮疑惑が晴れ、無事に誤解が解けてよかった。大きなカメラを持って歩いていると、それだけで警戒されることもあるから、何を撮影するにも注意が必要だ。
(さぁ〜て。気持ち切り替えていくにゃっ!)
次なるスクープを求めて街を歩いていると、両手に重たそうな買い物袋を抱えている主婦を見つけた。綾香はいつものようにてらいなく声をかける。
「こんにちは!」
「あら、綾香ちゃん。今日も元気そうね」
「その買い物袋、片方持ちましょうかにゃ?」
「ええっ、悪いわぁ。そうしてくれたら助かるけど……あら、ありがとう」
綾香のもとにスクープが集まるのには、それなりの理由がある。誰にでも明るく話しかけ、親切にする綾香だからこそ、誰もが彼女に協力し、ネタを提供してくれた。
「今日はもう、何かいいスクープ見つかったの?」
「それが、特ダネだにゃ! と思ったのが、ガセネタだったんだにゃ……よくあることだし、このくらいなんともないですけどにゃ! それで、次のスクープを探してるところですにゃ」
「あら……残念ね」
彼女は黙り込んだあと、声を潜めた。
「実はね、ちょっと気になることがあるんだけど……」
そうして通りすがりの主婦から、「そこの河原で、おじいちゃんが奇妙な魚を釣り上げたって」と聞けば河原へ走り、河原のおじさんから「三つ子を妊娠してる人がいるよ」と聞けば病院へ駆けつける。
そうしていくら自分の足でネタを追いかけても、どれもスクープには繋がらなかった。河原で釣り上げた変な魚は、木でできた小さなプロペラ機だったし、噂の三つ子に至っては、お腹に宿している子どもの名前を「みつこ」に決めたという三文紙にも載せられないようなダジャレオチだった。
◇
「今日は結局、収穫なしだにゃ。結構がんばったんだけどにゃ……」
ベンチに腰掛けた綾香は、休憩がてら牛乳とあんぱんを頬張りため息をついた。なかなかスクープを物にできないときこそ、このままで帰るわけには……と余計に燃えてしまう。今日はもうダメな日だ、とあきらめてまた出直すことも大切だとわかっているのに。
どうしようかしら、とぼやいていると、綾香の携帯が鳴る。新聞部の後輩からだ。宇宙人ネタや芸能人ネタと違って、今度こそガセじゃありませんようにと念じながら電話に出た。
「編集長! 動物園のレッサーパンダが逃げ出したらしいですよ」
「え、レッサーパンダ? それ、捕獲の瞬間を写真に収めたら、スクープになるにゃ……!」
「これは本当の本当に本当です!!」
「わかったにゃ、ありがとう。いってくるにゃ!」
綾香は食べかけのあんぱんを急いで口に詰め込むと、カメラを抱えて駆け出した。
近くの交番を横切ると、馴染みのおまわりさんに挨拶をする。綾香が手を振ると、おまわりさんもにこやかに手を振り返してくれた。
「こんにちは! 近くの動物園からレッサーパンダが逃げ出したって聞いたんですけど、知ってますかにゃ?」
「おー。情報が早いね。僕もついさっきその知らせを聞いたばっかりで」
情報が本物だと確証がとれた。心の中で小さくガッツポーズを決める。
「おまわりさんは捕まえに行かないんですかにゃ?」
「僕はここに待機だよ」
「なるほどにゃ。何か他に変わったことありませんかにゃ?」
「うーん。そうだなぁ。あ、おとといか、もうちょっと前くらいだったかな。野球バッグの落し物届いてませんか、って女の子が飛び込んできたよ。綾香ちゃんと同じくらいの年の女の子で。高額なものは何も入ってないらしいし、きっとバッグを取り違えただけでじきに戻ってくると思うけど。あの子たち元気かなー……」
「なるほどにゃ……」
それより何より、今はレッサーパンダだ。なんとしても、愛らしい動物が街を歩いている様子を、できれば捕獲の瞬間を、シャッターに収めて新聞のトップ一面に掲載したい。トップ見出しは「レッサーパンダ 真夏の脱走劇」で決まりだ。
綾香はインターネットに目撃情報が転がっていないか探しながら、動物園近くの駄菓子屋や、八百屋へ聞き込みを続けていった。その結果、集まった情報をもとに坂道を登る。
「お疲れ様ですにゃ! このへんでレッサーパンダ見なかったかにゃ!?」
綾香はすれ違ったご近所さんたちに、積極的に声かけを続けた。
「え? レッサーパンダ?」
「動物園から逃げ出したらしいにゃ」
「見てないねぇ。見かけたら綾香ちゃんに連絡するね」
「よろしく頼んだにゃ!」
スクープ、スクープ、スクープ……!! 奥歯を食いしばりながら街をかける。
すでに太陽が沈みかけていた。日が落ちると、綺麗な写真を撮るのがむずかしくなる。
(なんとか日暮れ前に現場を抑えないとにゃ!)
記者魂を燃やしながら街をかけていた時だった。
かさっ。
街路樹のツツジが揺れた。茂みが揺れ、小さな葉が地面に落ちる。
(もしかして……!)
即座にカメラを構える。その瞬間、青々とした葉の下から茶色い獣が飛び出し、道路を横断して駆け抜けていった。急いでシャッターを切る。
「あ〜っ、ブレちゃったにゃ〜! これだから、動物は難しいにゃ……」
いくら性能の高いカメラとはいえ、カメラマンの腕がよくなければ良い写真が撮れるはずがない。
「それにしてもレッサーパンダって、こんなに早く走る生き物だったかにゃ」
不思議に思っていると、道路の向こう岸に渡った獣が、にゃーと鳴いた。
「……猫!? レッサーパンダじゃなくて、猫……」
がっくり肩を落としていると、ふいに携帯が鳴った。情報提供元の後輩部員からだ。
「編集長! レッサーパンダ、公園のそばで捕まったらしいですよ」
「えっ!? いつ頃かにゃ?」
「もう20分くらい前だそうです……」
「……それじゃ、今からワタシが行っても間に合わないにゃ……くぅ〜っ、悔しいにゃっ!!」
電話を切ると、綾香はため息をついた。一日中走り回っても、掴んだスクープはゼロだった。お腹が鳴る。もうじき夕飯の時間だ。
河川敷をとぼとぼと歩きながら帰路につく。獲物なしで帰らなければならない日暮れには、どうしても両足が重くなる。
「スクープ……」
綾香はがっくりと肩を落とす。
「結局、収穫なしだにゃ〜」
夕焼けを浴びてぴかぴか光るカメラを持ち上げた。大事な相棒のワトソンも今日は一つもいいとこなしだ。
顔をあげると、いつもより大きな夕焼けが家々の屋根を赤く染め上げながら沈んでいく。燃ゆる赤色が眩しくて、一枚の絵のようだった。
「毎日、あっという間だにゃ……」
見上げると、淡い橙色の雲がゆっくりと空を流れていく。
(あの雲、おもしろい形だにゃ……)
今日はろくな写真を撮れていないことに気づいて、綾香はカメラを構えた。何の足しにもならないけれど夕空に浮かぶ雲でも撮って帰ろうか、と思った時だった。
ふいに人の気配がした。
「あの、すみません! 写真部の方ですか?」
空へカメラを向けていた綾香は、ファインダーから目を離す。
「ちがうちがう! ワタシは新聞部で……!」
綾香の目の前には、自分と年の近そうな女の子が二人立っていた。一人は白いユニフォーム姿で、もう一人は近所の中学校の制服を着ている。
「今、試合で勝ったところなんです。記念に写真撮ってもらえませんか?」
ユニフォームを着た、柔らかそうな栗色の髪の女の子がにっこり笑う。彼女のユニフォームは土まみれで、右頬にうっすらと乾いた砂がついている。ソフトボール部の女の子だろうか。運動部の活動も積極的に取材しているけれど、近郊で目立った活動をしているソフトボール部がないため、取材対象から漏れていた。
「携帯のカメラでいいから、綺麗に撮ってもらえると嬉しいです」
制服姿の女の子が、そっと携帯を差し出す。マネージャーの女の子だろうか。綾香は、いいですにゃ、とそつなく受け取る。
「やった! ともっち、もっとこっちよって!」
「わっ、翼……!」
ユニフォーム姿の女の子が、制服姿の女の子に近寄り腕を絡めた。制服姿の彼女は、照れくさそうに微笑んでいる。
「はい、ちーずだにゃ」
預かった携帯のカメラのシャッターを押す。二人とも、いい笑顔だった。何枚か写真をとった後、女の子に携帯を返す。
「ありがとうございました。今日はすごくいい試合だったんですよ! ずーっと接戦で……! 翼、本当におつかれさま」
「ともっちも応援ありがとう。明日からまた練習がんばるよ!」
また試合の熱が抜けきらないのか、二人は元気よく飛び跳ねながら瞳を輝かせていた。興奮した口調で試合の感想を語りながら、目をぎゅっと細めてにこやかに笑う。無邪気に戯れあいながら、二人は綾香に背を向けて夕焼けの方へと帰って行った。
「なんだか、いいにゃ……」
綾香はカメラを持ち上げると、ファインダーを覗く。一度だけシャッターを押した。夕焼けに照らされた道の真ん中で、楽しそうにはしゃいでいる二人の背中がはっきりと映っている。顔がうつっていなくても、笑い声が聞こえてきそうな明るさ溢れる一枚だった。眺めているだけで、楽しい気分が伝染してくる。
「いい写真、撮れちゃったにゃ……」
新聞には載せられないけど。くすっと笑ってから、綾香はカメラのレンズにカバーをつける。
明日こそ最高のスクープを撮ってやる! そう意気込みながら、綾香は大きく伸びをして、カメラをそっと抱きしめた。